解読文

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解説

今回の教材は慶応2年(1866)の新庄村(現長岡市、燕市)の九郎兵衛から野中才村(現燕市)の古沢顕六への田畑、屋敷の質地証文です。この証文では、割地によって決められた収穫高九斗六升七合四勺の土地が、金10両で7年間質入れされたという内容が書かれています。

新庄村は西蒲原郡の村で、江戸時代は村上藩や幕府が治めており、割地を行っていました。割地とは自然環境などの差により村人が被る損失が偏らないようにするため、年貢負担を平等にすることを目的に行った土地制度で、村人は一村の田畑、山林、宅地などの土地を、一定期間ごとに抽選で分割し保有していました。西蒲原郡をはじめとする地域に見られたのは、水害が多い土地であったためです。

江戸時代は村請制により、村は領主から割り付けられた年貢を請け負って上納していました。この仕組みでは、同じ村でも土地の標高が低く、水害に遭いやすいなど立地条件の悪い土地を持っている村人は、条件のよい土地を持っている他の村人に比べて、同じ広さの土地でも収穫高が少なく、年貢率が同じであれば、年貢負担が重くなります。そこでこのような土地条件の村では、村人の年貢負担に不公平が起らないように割地を行ったのです。割地を行った村では、一軒前の土地面積が決められていました。(注意)割地が行われた村でも、個人持ちの土地が売買されていましたし、またこの教材のように質入れされていたことがわかります。土地の質入れのときには、村役人が判を押していました。

【E9320-888、三島郡野中才庄屋古澤家文書】

注意:証文中の「村並」が一軒前と推測されます。したがって「村並」の「六厘二毛五」が質入れの対象になっています。